メンバー紹介

ラリー・ノボリ ― バンドリーダ (オレゴン州ポートランド市在住)

-- リード・アルトサックス&クラリネット
 ラリーはバンドの大事な音楽ディレクターでありまとめ役である。--オレゴン州ミルウォーキー市在住

--経歴
 ラリー・ノボリは1942年カリフォルニア州サクラメントに生まれた。
母親の家族は日本人の多いサクラメント郊外の小さな町フローリアン出身で、小さないちご農場をやっていた。
父親の家族はカリフォルニア州オークランドで食料品店を経営していた。
ノボリ氏の家族は最初タンフォラン競馬場厩舎に収容されその後アーカンソー州ジェロームに移送された。
ノボリ氏の家族はキャンプを最初に出ることが出来、30代前半のラリーの父親はオハイオ州クリーブランドで仕事を得ることができた。
ノボリ氏が4歳の時家族はカリフォルニア州オークランドに戻り、父親は食料品店を購入し彼としては初めての経営を始めた。彼のモットーは「やれジョージ」で、お客さんや会う人皆に好かれた。ノボリ氏は敵意や露骨な人種差別に遭遇することなく育った。彼の父は働き者で普通の中流家庭の生活を楽しめた。

--学歴および教職
 ラリー・ノボリは1971年にサンフランシスコ音楽院を卒業。1971年から1978年までカリフォルニア州バークレー校で教鞭を取った。
幸運にもフィルハーディモンとハーブウォンが設立したバークレージャズプロジェクトに参加した。デュークエリントンオーケストラは1982年に結成された。ノボリ氏のロングフェロー中学での生徒には個人教授でジョシアレッドモンドや学生だったジャズピアニストのベニーグリーンもいた。その頃のバークレーからは偉大なジャズアーティストが輩出され、ジャズやいろいろの音楽で成功している。フィル・ハーディマンは1982年に亡くなった。

 ノボリ氏は1978年家族を連れオレゴン州ポートランドヘ引っ越し高校と中学校で教えた。
1985年にフェンウッド中学で教え始めるまでは関心が無かったジャズ教育に力を注ぎ続けている。
1990年から1994年まではノボリ氏はジャズ教育国際交流協会の州の役員として秘書や副会長を務め、その間に全州ジャズバンドの設立に貢献しました。ノボリ氏は多くの才能ある学生の教育に成功し2001年に引退した。

--音楽家
 ノボリ氏は今も年中、演奏と教えることを続けている。ポートランドに来た1978年からクラシックからジャズ演奏に変更。ポートランドはジャズが盛んで、今も続いているロン・スティーンやメル・ブラウンのジャムセッションで演奏していた。

ノボリ氏の主な演奏
素晴らしいピアニストで作曲家のゴードンリーの曲「Jazz Sonata For Clarinet And Piano」1998年12月、ウエストコーストジャズアンサンブル
親友のリックホーマーをフィーチャーしたジャズカルテットCD 「Sail Away」 1999年WCJE

ノボリ氏は現在 Cafe Jazz を主催。http://cafe-jazz.com/
オレゴン州の桂冠詩人ローソンイナダと歌手ノラボーグルと詩とジャズをフィーチャーした「センチメンタルジャーニー」コンサートを開催。ローソンは詩と音楽を通じて強制収容所の物語を語ります。http://oregonmusicnews.com/tag/larry-nobori/

ノボリ氏は2007年ロベルタ(ロビー)ツボイ氏が創立以来ミニドカスイングバンドの指揮と音楽コーディネータである。
バンドはウォールストリート·ジャーナル(2010年3月28日)、シアトルのキングTV5の「イブニング·マガジン、「太平洋シチズン誌で紹介された。

ノボリ氏はミニドカスイングバンドのディレクターとなれたのは大変に幸運と感じている。
ツボイ氏は2008年にミニドカ強制収容所巡礼のため、主に若いアジア系アメリカ人学生でのバンドを作ろうとしていました。
彼女のビジョンは若者がスイングミュージックを演奏して一緒に踊って強制収容所問題を考えることでした。

これは大成功でした。

スイングバンドは私たちと強制収容所にいた時間の事を一般アメリカ人へわかりやすく伝えます。

ミニドカスイングバンドはThe Harmonaires(Mikados of Swingとして有名なシアトルのバンドの正式名でミニドカと困難な年月の間大きな痛手を被った全ての強制収容者へ捧げた)の音楽を演奏し続けます。



ジョージ・シンボ ―アルトサックス&ボーカル(オレゴン州ポートランド市在住)

 ジョージはワシントン州シアトルで生まれ育ちシアトル大学とワシントン大学を卒業した。
彼はシアトル地域開発省インデアン総務局事務所に選ばれた。
また今も続いているシアトルの大規模バストンネルプロジェクトの警察室長でした。

 彼の最初にヒットした他のヒットスタート一緒に作ったレコードはわずか16歳の時でした。
ジョージはバディ・キャトレット、パワード・ロバーツ、ブライアン・ノバ、アイザック・ヘイズ、テンプテーションズ、スティーヴ・ミラー・バンド、ジョージ・クリントンとP-ファンク、マセオ・パーカー、パール・ジャム、トラジカリー・ヒップ、ファッツ・ドミノ、チェット・ベーカ、ジョージ・ケイブル、ロン・カーター、フレディ・ハーバード、ゲイリー、ピーコックのような著名人と演奏しレコーディングしスリム・ガイヤードとは2年間演奏しています。
 1980年代にはカルテットを率いてヒルトンホテルサーキットで5年間歌い、また有名なジャズクラブ、パネルスにも出演した。ジョージは色々なグループでゴールドやプラチナに輝く12枚のCDを録音した。ブライアン・ノバのCDもプロデュースし、ノースウエストでのファンクとソウルミュージックのパイオニアとして知られた。シアトル新聞にも取り上げられEMP博物館に記述されている。

ジョージの家族は市の開発者としてシアトル博物館入りをしています。
シアトルでは中国とツタンカーメン王の展示会のデザイナーでもありました。
ジョージはシアトルのアンダーザレイルロッククラブの共同経営者で3つの会社をビアコムとクリアチャネルに売り渡すまで広告担当幹部でした。
現在は二ユージャージの障害者のためのイアムクリニックという会社の役員であり、オレゴン州オスワゴ湖のトライウエスト不動産で働いている。

2010年の夏からミニドカスイングバンドのメンバーとなりグループと一緒に演奏する事を愛している。


マイク・ストラスマイヤー ―テナーサックス(オレゴン州ビーバートン市在住)


ジョーイ・ユズリハ ―テナーサックス(ワシントン州バンクーバー市在住)


 2011年に13歳でミニドカスイングバンドの最年少メンバーとなった。

イレーン・ユズリハ ―テナー&バリトンサックス(ワシントン州バンクーバー市在住)

 イレーン・ニシカワはカリフォルニア州ディクソンの農場で育ちました。小さい頃から両親と祖父母が戦争中キャンプに送られていた事を知っていました。父方はギラリバーからツールレイクへ、そして母方はツールレイクでした。両親がその事を話さないのは普通のサマーキャンプのようなものだからだと思っていました。
 高校1年の時、両親の高校生時代についてのエッセイの宿題がありました。この時初めて父が高校生活の4年間を有刺鉄線の中に投獄されていた事を知りました。彼の罪は日本人の親から生まれたということだけで米国政府から強制収容所に収容されたのでした。
 これは衝撃的な事実でした。
同じ米国政府から今度は軍隊に18ヶ月の徴兵され、朝鮮の前線に尋問官として終戦まで15ヶ月勤めた。
 母親は音楽を愛しバイオリンを演奏し、イレーンと兄弟はピアノとバンドの楽器を演奏しながら育ちました。イレーンは小学校からずっとテナーとバリトンのサックスを演奏し、スタンフォード大学のウインドアンサンブルではバリトンサックスを演奏しました。
 彼女は医療微生物学科をファイベータカッパのメンバーとなる優秀な成績で卒業しトッド・ユズリハと結婚してポートランドへ来ました。
 3人の子供を育てるため専業主婦になるまでオレゴンリージョナル霊長類研究センターで研究助手として働きました。
 またオルガンを弾きオレゴン仏教寺院の寺院学校で教えていました。
イレーンは長男のジルがスタンフォード大学に入学後、2007年からまたサックスを吹き始めました。そしてJACLニュースレターでミニドカ巡礼のためユースバンドを結成するオーディションの広告が目に入りました。夫と一緒にロビー・ツボイ氏に連絡し創立メンバーになりました。
息子のケンはユーホニウムからスライドトロンボーンに持ち替えてスタンフォードに入学する2008年まで参加しました。娘のジョーイも現在バンドで演奏しています。
 イレーンは何千ものアメリカ市民が戦時中のヒステリーと偏見で市民の自由が無法に剥奪された事を知ってもらい意識を高めることがバンドの使命だと本当に信じています。
そしてこの不幸な出来事が歴史上決して繰り返されないよう祈っています。


トッド・ユズリハ ―リード・トランペット(ワシントン州バンクーバー市在住)

 オレゴン州ポートランド育ちで8歳からトランペットを吹き始めました。1975年にはオレゴン州オールステイトバンドに選ばれ、1977年から1978年まではMcDonald全米高校バンドにも選ばれて、スタンフォード大学のウィンドアンサンブルに所属していました。
 2007年の9月からのミニドカスイングバンドの創立メンバーです。
 彼にとってバンドは特別に意味あるもので第二次世界大戦中に両方の祖父母が強制収容所に収容されていました。父方はミニドカ、母方はハートマウンテンでした。

 スタンフォード大学工学部 B.S.、U.C.バークレイ工学部 M.S.、ポートランド州立大学 M.B.A.を得て卒業しました。
 彼はロジテック社の開発副社長、シャープの上級部長、テクトロニクス社の開発課長を歴任し退職しています。
 現在はワシントン州バンクーバー市のエバーグリーン公立学校理事会の役員であり、フォートバンクーバー地域の図書館の運営委員です。


リック・ホーマー ―トランペット(オレゴン州ポートランド市在住)

 素晴らしい音楽経歴からソロトランペットを担当。父はビッグバンド全盛の頃にセンチメンタルジャーニーで有名な作編曲家であったベン・ホーマーなのでミニドカの主なレパートリーは聞いて育った。
 彼は主にジャズ畑で50年以上も演奏活動してきました。
 そして、後の50年はミニドカバンドと日本人社会と一緒に過ごす事を楽しんでいます。

カール・バックスター ―トランペット(オレゴン州ヒルスボロ市在住)

 カールは5年生から中学までコルネットを演奏し、高校の4年間はオレゴン州ウマチラのウマチラ高校のコンサートバンドでホルンを吹き、ペップバンドとステージバンドではコルネット、マーチングバンドではパーカッション(スネヤとトムトム)を演奏していた。高校の間はペンデルトン・レンジャーズ・ドラムとビューグル・コープでメロホンを吹いた。ブルーマウンテン短大の航空技術科を卒業。
米空軍を名誉除隊し帰ってからはペンデルトン市民オーケストラで1年間演奏した。
顧客データ技術者としてクエストコミュニケーションで34年勤務して退職した。
 それから2009年の初めにミニドカスイングバンドにトランペットで参加しこの歴史的なバンドの一員として本当に楽しんでいます。


テリー・バックスター ―トランペット(オレゴン州ウィルソンビル市在住)

 テリーはコルネットを小学校から演奏し始め中学高校と8年間続けた。また4年間はステージ、ぺっぷ、マーチングバンドに所属していた。
 現在ウィソンビルに住み近くのソフトウェア会社で働いている。
彼はいつも音楽を愛していて、2009年秋からミニドカスイングバンドのトランペットとして彼の才能を寄与しています。


エリック・オルソン ―トロンボーン(オレゴン州ポートランド市在住)

 エリック・オルソンは小学校の先生を退職しています。ポートランド地域で多くのジャズバンドやクラシックのオーケストラでトロンボートチューバを吹いていました。彼は学校で金管楽器を習いポートランド州立大学を卒業しました。

 ミニドカスイングバンドには2011年に彼の生徒だったユキ・イノウエが大学入学のため退団する代わりに入ってくれました。ユキはオルソン氏の放課後のマーチングバンドに3年生から入っていて、他の北ポートランドの何百人もの生徒のようにセロニアスモンクの音楽が大好きになっています。

アーヴゥ・ピーターソン ―トロンボーン、編曲

ダッグ・ハミルトン ―トロンボーン

マイケル・パワーズ ―バストロンボーン

ロニー・ドイ ―ピアノ&キーボード(オレゴン州ポートランド市在住)

エリック・ピーターソン ―ドラム(オレゴン州ポートランド市在住)

ダッグ・カタギリ ―ギター(オレゴン州ビーバートン市在住)

 ダッグ・カタギリはオレゴン州ポートランド出身です。両親と祖父母は第二次世界大戦中は強制収容所に収容されていました。ミニドカスイングバンドに参加したのはキャンプ生活に耐えて取り返しのつかない生活から生き残ったすべての人々を誇りとして称えてゆくためです。

 彼はフォークやガレージバンド全盛の1960年代からギターを弾いています。ロビー・ツボイがミニドカスイングバンドの結成メンバーとして誘った時はビッグバンドは初めてでした。現在オレゴン州ビーバートンに住みオレゴン動物園でグラフィックデザイナーとして働きながら、幾つかの「ギーザー(変わった)」バンドでロックやブルースを演奏し、アイリッシュのバグパイプバンドでドラムを叩き、アカペラカルテットで歌っています。


コウキチ・タガワ (田川康吉)―ベース&ピアノ(オレゴン州ポートランド市在住)

 ジャズピアニカ、ジャズピアニスト、ヴァイブラフォン、ドラム、ベース、作編曲。
1946年広島生まれ長崎育ち。電話エンジニアとして広島、東京、尾道、倉敷へ。
92年に46才でボストンへ。95年バークリー音大卒 Jazz Composition Magna Cum Laue。
ヴァイブラフォンをGary Burton、Ed Saindon。作曲をTed Pease 各氏等に師事。
2002年ケンタッキー州レキシントン
2012年よりオレゴン州ポートランド在住

ノーラ・スガイ・ボーグル ―ボーカル(ワシントン州バンクーバー市在住)

 ノーラは日系アメリカ人の父と中国系アメリカ人の母から1938年にミシガン州デトロイトで生まれ音楽的な環境で育ちました。
両親のドンとフィル スガイはアンディラッセル、デュークエリントン、フランクシナトラ、ビリーホリデイ、ビリーエクスタインが大好きでした。第二次世界大戦中、彼女と家族はアイダホ州ミニドカに強制収用されました。そこでのラジオから流れるビッグバンドや歌手の歌声を覚えています。
 1958年に友人がオレゴン州オンタリオでのローカルタレント/美人コンテストに応募し「バーモントの月」を歌い優勝しました。
それからすぐに60年代初めに工芸を勉強したアイダホ州ボイジーに引越し、昼は法律秘書、夜はクラブで歌っていました。カクテルドラムを覚え歌手とドラマーとして幸運にもその地域のトップミュージシャンと演奏活動していました。2年後にはタホ湖地域の北と南海岸のクラブで6ヶ月間働きました。1964年にオレゴン州ポートランドに引越して出会い、一緒に仕事をしたシドニーポーターと結婚しました。ポーターはピアニストでSidney'sというジャズクラブを経営していた。4年間一緒に働き彼が肺がんで亡くなるまでに2人の娘を授かりました。1970年シドニーの死後、著名なギタリスト、バディファイトとオスワゴ湖のビーチコンバース、ディックブレイクとデイビッドフレソンとベンソンホテルのロビーバー、ハリーギルガムとユニオンアベニューソシアルクラブ、ハーブホールとビルズゴールドコインなどで仕事しました。1973年には活動を止め事務職に戻り二人の娘、エリカとティファニーを育て上げた。

1976年にディックボーグルに会い後に結婚しました。かれは最初のアフリカ系アメリカ人としてテレビのニュースキャスターとなりました。33年間の結婚生活で合わさった家族は子供5人、孫13人、ひ孫3人となりました。ディックボーグルは2010年に亡くなりました。

一度オールド教会のコンサートに参加した時はグループで歌い大喝采を浴びました。その後オールド教会のチャリティコンサートに要請されました。タバコ臭い騒々しいクラブでの何年もの演奏活動の後、小さなコンサートの聴衆の前での演奏は暖かくそした爽快でした。
1999年にポートランドのジャズピアニストのダレル・グラントに会った。彼は後にポートランド州立大学のジャズ科の准教授になった。グラントとコンサートといくつかの小さな仕事をした後、レコーディングはしているのかと聞かれてしていないと答えると一緒にCDを作りましょうといいました。
20年以上の活動停止後ついに初のCDを作成しました。
2001年6月に発売した「サムシング・クール」がそれです。彼女の幅広い魅力を表現するためポートランド在住の最高のミュージシャン、ダレル・グラント(ピアノ)、アンドレ・セント・ジェームス(ベース)、メル・ブラウン(ドラム)、タラ・メモリー(トランペット)、ワーレン・ランド(アルトサックス)、マイク・ホースフォル(ヴァイブラフォン)、ダン・フェンル(ギター)、イスラエル・アノウ(パーカッション)、サミー・エプスタイン(クラリネット)、パンシィ・チャン(チェロ)が参加しています。

近年のノーラの活動は毎年のポートランドジャズフェスティバルやピアニストのジャニス・スクロージン、トニー・パチーニ、グレッグ・ゴーベル、フィル・ゴールドバーグ、そしてベーシストのアンドレ・セント・ジェームス、エド・ベネット、デニス・カイアザ、それにドラマーのメル・ブラウン、ロン・スティーンと競演しています。

2008年にロビー・ツボイ氏にミニドカスイングバンドの歌手の一人として参加を要請された時は、今までの小編成グループでの演奏からのチャレンジでしたが快く参加し頑張ってきています。今日のノーラからは1960年代初めにアイダホ州ボイジーで歌って働いていたとは想像できません。50年以上に渡りステージをこなし、結婚し二人の美しい娘を育て上げたのですから。

そして彼女はまだまだこれからです。


ヘンリー・シグ・サカモト ―ボーカル(オレゴン州ポートランド市在住)

ヘンリー・シグ・サカモトは日本人移民の三男としてオレゴン州ポートランで生まれ育ちました。
1941年12月7日日本政府がハワイの真珠湾攻撃をするまでは普通のアメリカ市民として育ちました。報道と政治家たちが引き起こした人種偏見の炎はアメリカ西海岸の12万人に及ぶ日系人の強制収用となりました。アイダホ州ミニドカの収容所キャンプの高校を卒業。1944年にオハイオ州デラウェイのオハイオウェスリアン大学に入学。1946年から1947年まで米国陸軍に所属していた。1951年6月にオレゴン大学で経営管理学科卒業B.S

仕事は主にオレゴン州ポートランドでした。始めの32年間は米国農務省。それから3年間オレゴン州小麦委員会、最後の7年間は小麦産業の自営コンサルタントでした。

音楽経験は30年代後半と40年代初めの頃のビッグバンドの録音を聞き始めたことからです。これはミニドカに収容されていた間に特に強烈でした。オハイオウェスリアン大学の間は皿洗いで働きながら学校に行ったグループのディシュウオッシャー合唱団で歌いました。
その後はカラオケが流行りだす1980年代半ばまでは家で歌っていました。これがカクテルラウンジピアニストが歌の伴奏をしてくれて色々な演奏機会に繋がりました。ロビー・ツボイ氏が作るミニドカスイングバンドの男性歌手として参加する事になり最高潮に達しました。楽譜が読めない唯一のメンバーを優しく助けてくれるMSBのミュージシャンに感謝しています。



ジョー・ピーターソン ―ボーカル

ジョアン・ピーターソンは3歳からお父さんと歌っていました。彼女は色んなバンドで歌ったキャリアがありそしてダンスが大好きでした。スイング、ボサノバ、チャチャチャなどいろんなダンスを踊っていました。ジョーの夫は彼女がバンドの秘蔵子歌手となる前からミニドカスイングバンドでトロンボーンを吹いていました。ノーラが夫の世話のため休んだ時の代わりとして2009年1月からミニドカスイングバンドで歌い始めました。
  そして、その後も私たちは彼女に歌ってもらっています。


アンディ・ストレイチ ―ボーカル

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ローラ・バックスター(オレゴン州ヒルスボロ市在住)
 ―マネジャー
泰代・スタラスマイヤー(オレゴン州ビーバートン市在住)
 ―アシスタントマネジャー
バレリー・カタギリ(オレゴン州ビーバートン市在住)
 ―アシスタント

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